館長便り

2022-12-16 13:51:00

其の七 冒険者たち~筏(いかだ)の話~

IMG_5865.jpeg

昔、マーク・トゥエインの短編集を読みました。

 マーク・トゥエインといえば、アメリカを代表する作家で、「トム・ソーヤーの冒険」は知らない人はいないですよね。このお話は、マーク・トゥエインの少年時代がモデルになっており、自身あるいは友達との間に実際に起きたことがもとになっていて、世界中の子どもたち、また昔の子どもだった人たちに愛読されました。アメリカ南北戦争の少し後に出版され、アメリカという新しい国が、もっともアメリカらしかった時代を背景としていました。ミズーリ州を流れるミシシッピ川沿いの町を舞台として、子どもたちの冒険話は、今でも楽しめる名作です。

 私はちょっとへそ曲がりなので、マーク・トゥエインという作家にまず興味を持ち、「トム・ソーヤーの冒険」よりも短編集の方から読み始めたのでした。当時のアメリカ人のちょっと個性的で粋なお話がとても面白かったです。最近思い出してまた読んでみました。昔の文庫本は字が小さくて疲れましたが、やっぱり面白かったですね。

 さて、マーク・トゥエインの事を書こうとしている訳ではありません。

 「冒険」という言葉、行為が今はどうなっているのだろうか?ということです。おそらくゲームの中でたくさんの疑似体験はできているのでしょうが、実際の草むら、岩場、泥水、土砂降りの雨など、直接体感できる「冒険」は難しい時代になったのかも知れませんね。いつも「何かあったらどうする」「誰が責任を取るんだ」のおきまりの言葉で、大人の目の中だけの体験活動になってしまっています。特に学校などはやりにくくて当然の社会になっていますね。大人の目の届かない世界に子どもたちの本当の冒険があるのですから。

 私が子どもの頃の記憶にこんなものがあります。家の近くに今出川という小さな川が流れています。そこに借宿橋という橋があり、その下は子どもたちの遊び場でした。当時の川は、今と違って河川工事や水量調節などありませんでしたので、深い場所がたくさんありました。確か私が5,6歳の頃だったと思いますが、私は悪ガキ達の中で1番年下でしたので、いつも何かの実験台にされていました。ある日「畳が人を乗せて浮くか」という訳のわからない実験をすることになりました。よくそんなバカなことを考えつくものだと思いますが、その畳に乗るのは私ということになりました。どこからか古い畳が運ばれてきました。私がその上に乗せられ、何人もの手で川まで運ばれ、「せーの」とかけ声と共に川に放りこまれました。

 

  浮かぶはずがありません。

 

 ズブズブと沈んでいく畳の真ん中に素直に乗っている私は、こちらを指さしながらワイワイ騒いでいる年上の子どもたちを見ながら、川の中に沈んでいったのです。

 どうやって助かったかは記憶にないのですが、あの沈む感覚だけはよく覚えています。その時のガキ大将がやがて中学校の校長になり、私が教頭で仕えたというおまけの話を加えておきます。

 

 私の育った町は、マーク・トゥエインのミシシッピ川ほどではありませんが、阿武隈川の支流が町の中を流れており、子どもたちはよく川で遊んでいました。私が小学校6年の時に上流にダムができたために、川底が整備され、深みのない人工的な川に変わってしまいました。私は、そうなる前に何かやってやろうと思いました。どこで思いついたかはわかりませんが、「筏で川下りをやってみよう」という発案をしたのです。この頃の子どもたちは、こういう話にはすぐに乗ってきます。「やろう」「やろう」とすぐ行動に移るのがいいですね。なぜそんなすぐに行動に移せるのか。それは「先のことを考えない」からなのです。「まずはやってしまおう」という共通理解で筏づくりが始まりました。暑い夏休みだったなあ。朝早くから、何人もの悪ガキ達が木材や太い竹、荒縄、ロープなどそれぞれが出発点の河原に持ってきます。「ああでもない」「こうでもない」と組み立てますが、なかなか上手くいかない。何とか形になったが今度は浮かばない。人が乗ったら沈んで進まない。お昼ご飯も忘れて昼過ぎまで筏づくりをしていました。とにかく暑かったなあ。

 

ようやく一人だけ乗せて浮かぶ筏ができた。

 

もうそれでいい。はやくしないと日が暮れるという状況になってきました。とにかく出発です。

思ったより、筏はすいすいと流されていきました。子どもたちは交代で筏に乗り、後は川沿いの土手や道路を走って追いかけました。あちこちで人が立ち止まって私たちを見ていました。私たちは、妙に誇らしく、嬉しさがこみ上げてきました。当時の大人は「危ないだろう」なんて誰も言ってきませんでしたね。

 今になって私たちの筏の移動距離を調べたところ2キロくらいでしょうか。自動車で行けばあっという間でしょうか。子ども達にとっては大冒険でしたね。

 川がだんだん深くなり、仲間が川を併走することも難しくなったので、子どもなりに限界を判断し、「ここまで」と川下りをやめました。川岸に筏を寄せて、初めて気づいたのですが、「この筏どうする?」ということになりました。子どもの浅知恵ですね。その後を考えていなかったのです。陸に揚げて持って帰るわけにも行かず、そのまま流して知らんぷりをするわけにもいかず、結局は川岸に接岸して、とりあえず今日のところは帰ることにしました。次のことはあとで考えようということになったのですが、先のことは考えない当時の悪ガキ達は、すっかり忘れて、次の日からまた新しい冒険を探しに行ってしまったのでした。

 その後、あの筏はどうなったのでしょうか。

 私の小学生の頃の冒険話でした。

 

 

やったことは、例え失敗しても、20年後には、笑い話にできる。
しかし、やらなかったことは、20年後には、後悔するだけだ。

- マーク・トウェイン -

 

2022-12-05 09:38:00

其の六 支部長たる者は

IMG_5801.jpeg 私が極真空手(当時の極真会館)の福島県支部長になったのは、34歳(平成7年)の年の6月のことでした。

 私は、高校時代、福島県南支部の郡山道場で指導員をしていましたが、高校卒業後盧山師範のもとで6年間内弟子として修行をした後、中学校の教員として就職し、福島県に戻りました。その後、もとの支部で師範代となり、地元石川町では分支部長として、空手を続けていました。

 ところが、大山倍達総裁がご逝去され、極真空手は分裂を繰り返すようになりました。私は、盧山師範について行くだけなので、何の迷いもありませんでしたが、所属していた支部長が除名となったことから、私に支部長の役目が回ってきたのです。

 6月のある日のことでした。仕事場に盧山師範から電話がかかってきました。「(当時の)館長から何か頼まれると思うが、絶対断るなよ。」でした。何のことかわかりませんでしたが、返事は「オス」しかありません。その後まもなく館長から電話がかかってきました。「支部長になってください。」ということでした。これも「オス」しかありませんよね。こんな大事なことを心の準備もないままに「オス」で済ませてしまうというとんでもない世界ですね。

 

 さあ、どうしよう。

 

 支部長というものは、全国組織の中で、福島県というエリアの統括を任されるわけで、会員の管理や審査、大会の開催をするなどの権限が与えられるのです。職業とすれば、支店長というような意味にもなるでしょうし、私は公務員でしたので、報酬はもらわないけれども組織のまとめ役として責任を果たすということはしなければならないのでした。今まで、師範代とか分支部長とか、気楽に(?)やってきた私が、『全体』ということを考え、責任を負う立場になったのです。福島県内はもちろん、全国の一支部としての立場も出てきます。ただ、趣味の延長で気の合う仲間を集めて御山の大将のような活動をする訳にはいかないのです。また、「総本部を助ける」という役目も重要です。当時の極真会館という組織があっての支部ですので、自分のわがままや怠慢で総本部の足を引っ張るわけにはいきません。組織全体が発展してこその支部ですので、支部は組織の脇役ではないのです。ですから私は総本部の事業には積極的に協力したものです。機関誌など会員数分購入し、会員に無料で配ったりもしました。ただしこれはもともと会費の中に含めたものなので、実際は無料ではなく、会費の中でちゃんと払っているわけです。これもちょっとした工夫ですね。支部によっては、ほしい奴だけ買えばいいなどといって数冊しか協力しない場合も多く見られました。その組織に機関誌があり、一般の書店にそれが売られていることのメリットを考えたら、どの支部も協力するべきなのではないでしょうか。だいたい2000部売れれば、出版社は機関誌を作ってくれます。各支部で協力すれば2000部なんてあっという間だと思うのですが。ちなみに当時の福島県支部では350部購入していました。これは、本部によい顔をしようとして行った訳ではありません。実はこれには意外な宣伝効果があるという見通しがあってのことでしたので、やがて会員数が500名を超える大きな力になりました。

 「今年中に大会を開いてください」という指令がありました。6月に支部となったばかりなのに、年内に大会を開くなんて無理だと思いますよね。でもやるしかないのがこの世界です。いろいろ考えました。場所の確保、運営の準備などは、仕事柄慣れたものではあったので、「やれるだけやってみよう」ということにしました。そうすると不思議なもので、保護者やジムの仲間が後援会を結成してくれたり、広告を集めてくれたり、短期間でなんとか大会の準備をすることができました。大会は、12月の寒い日でした。盧山師範も来賓で来てくれました。埼玉の仲間も審判などで駆けつけてくれました。こうして第1回福島県大会が開催されました。型と組手併せて60名ほどの小さな大会でしたが、地域では大きな注目を集めた大会でした。型の試合などは、当時の極真空手では試合形式が確立しておらず、盧山師範がたった一人で審判を行い、入賞者をすべて一人で決めました。前代未聞ですが、その「見る目」には、唯々驚かされました。盧山師範には「福島は寒かったぞ。風邪引いたぞ。」としばらく会う度に言われましたが、それから27年間、福島県大会、南東北大会、東日本大会と発展した私達の大会すべてに盧山師範は来てくださっています。「あん時は寒かったな。」「あん時もらったリンゴはおいしかったな。」と今でもお覚えてくださっています。

 極真会館から極真館に変わっても、支部長の役目は変わりません。

 

組織の看板を背負っている

 

 まずはそれです。「看板に偽りなし」ということですね。

 極真会館時代は、「型競技を作ってほしい。型を整理してほしい。」という指示を受けて、型競技委員会がつくられ、現在の型競技が実施されるようになりました。極真館になってからは、さらに武器術が加わり、空手本来の稽古方法に立ち返る内容に発展してきたのです。「競技空手」から「武道空手」に原点回帰したのですね。

 となると、支部長たるものは、この組織の方針を己の支部に徹底することが責務とされるのです。私自身は、型も武器術も内弟子時代からの稽古の一環として行っているだけで、「そんなもの自分でやるもんだ」と思っていましたから競技化など考えもしませんでした。しかし、本部の意向ですので、支部としてもその方針に従い、いろいろと工夫して指導に取り入れたものでした。これについては、分支部長や黒帯の指導員達がよく理解し、協力してくれました。福島県は分支部が多く、広範囲に道場があるため、指導員を集めての練習会を年に何度も行い、指導内容の共有を行いました。それぞれの好き嫌いはあるのでしょうが、「看板に偽りなし」の指導を行っている道場ほど会員数を伸ばし、組手も型も結果を出すようになりましたので、黒帯同士の情報共有と「学び合い」が私の支部経営の柱となりました。御山の大将は要らないのです。常に足下と全体を見る目が、指導者には必要です。

 「たいへんだ」「たいへんだ」「あれもこれもやってらんねえ」という人も多くいますが、結果として、「看板に偽りなし」という方針で支部経営をすることにより、徐々に会員が増加していきました。ニーズの多様化に対応しているということですね。

 大会にも協力しなくてはいけない。合宿も参加しなくてはいけない。あれもこれも教えなくてはいけない。外部のクレームも対応しなくてはいけない。強い生徒も育てなくてはいけない。たくさんの生徒も集めなければならない・・・・「ああ大変だ。支部長なんてやってらんねえ。」

 

 私も何度思ったことかわかりません。

 

 でも、組織の中で、誰かが、盾となり、日傘となり、みんなの生きる場を作ってやるという役目を負わなければならないとしたら「それもありかな」と思ったものでした。教えるために自分自身がもっと稽古をしようとさらに頑張ったものでした。結果として、それらのことは自分自身のためになったのかも知れません。

 

 思いやりとは、他人のために自分の時間を割くこと

 

 と中学校の生徒に教えたことがあります。感謝をされるとか、何かをもらうとか、そんなことよりも誰かが喜んだり、励まされたりする場面をつくりあげるために自分の時間を惜しまず割いて関わっていく。その結果、達成感を味わい、喜ぶ人たちの姿を遠目に見ることが私は好きですね。

 

 例えば、学校の文化祭で、閉会式で体育館の天井から吊したくす玉を実行委員長がひもを引いてうまく割れたとき、全校生が歓声をあげ、みんなキラキラとした笑顔、泣き顔をするときなんて、特に好きな場面でしたね。

 ただのお遊びイベントではなく、「文化祭とは何か」、「学校とは何を学ぶべきところか」というこだわりがある活動をしたからこそ本物の感動が生まれるのです。まさに「学校という看板に偽りなし」ですね。

 支部長には、誰もがなれるわけではありません。自分が望まなくても、誰かに押しつけられても何でもいいのです。

なった以上は「看板に偽りなし」です。

 

今、支部長として頑張っている人たちには、本当に頭が下がります。環境や条件もそれぞれに違い、なかなか会員が集まらなかったり、逆に多すぎて指導の手が回らなくなったり、苦労の連続だと思います。

私も、かつてはたった一人で体育館を開けて、たった一人で稽古をして、たった一人で鍵を閉めて帰ったことなど何度もありました。今思えば懐かしい思い出です。

 

支部長たる者は、東郷平八郎のマスト登りのごとくあれ。

 

2022-10-27 15:43:00

其の五 卓袱台(ちゃぶだい)の話

 IMG_5334.jpg

 

 

 「巨人の星」という野球漫画がありました。原作者は「空手バカ一代」の梶原一騎先生でした。私が小学生の頃大人気の漫画で、巨人軍が9連覇した頃の野球漫画を代表する名作です。毎週土曜日の夜7時からのテレビ番組で、どこの家でも男子は「巨人の星」でしたね。ちなみに8時からはドリフターズの「全員集合」でした。昭和40年代の頃のお話です。

 巨人の星の主人公は、星飛雄馬といいます。この主人公の野球スポ根物語なのですが、その親父の星一徹という人が、とにかく厳しく怒りん坊でした。飛雄馬が怠けたり、何か気にくわないと食事の時でも卓袱台をひっくり返して怒るのです。再放送があったり、昔のアニメの代表的なシーンとして「卓袱台ひっくり返し」の場面はその後の子ども達の間でも結構知られていました。

 ここから私の話です。私はどちらかというと「怖い先生」だったかも知れません。当時の生徒達に「怖い?」と聞くと「そんなことはありません」と引きつった顔で答えていましたので、おそらくそうだったのでしょう。「優しい」とか「面白い」とかいってくれる生徒もいましたが、「優しいけど怖い」「面白いけど怖い」というところが頃が本音ですかね。そんなに星一徹のような怒りん坊ではなかったと思いますが、荒れた学校や面倒な生徒ばかり担任していましたので、「怖い顔」をする場面は少なくなかったのでしょう。私は日頃は仏のように穏やかに、怒るときには相手の唇の色が白くなるほど「烈火の如く」というように使い分けていました。ですから、どの場面を主に見ているかで印象が分かれるかも知れませんね。

 だいぶ前のことになりますが、学年で1番の暴れん坊を担任していたときのことです。毎日いろいろありましたが、学校中飛び回っている私のクラスは、申し訳ないくらいによく頑張っていてくれました。給食の準備、後片付けは学校で1番、清掃も1番でした。特に女子がしっかりしていたので、担任がほとんど教室にいないのに、まとまったよいクラスでした。

 そんなある日のことでした。いろいろな問題が続き、ちょっとストレスがたまっていたのだと思います。私が教室でぶち切れて教卓をぶっ叩き、天板がぶっ壊れてしまいました。怪我人が出るようなことではありませんでしたが、おそらく相当怖かったのではないでしょうか。クラスの生徒がそんなに悪いことをした訳ではなかったのですが、虫の居所が悪かったのですね。「しまった」と思いました。放課後、壊した教卓を1人で修繕して帰りました。いかんなあ・・・

 次の日の朝のことです。なんとなく気まずい心持ちで教室に入りました。そのとき、教卓の上に乗っていたものを見て、私は驚きました。

 

  ボール紙で作った卓袱台

 

 ご丁寧に色まで塗ってリアルな感じで教卓に乗っていました。私は、声も出せずに立ち尽くしました。

「先生、腹が立ったらそれをひっくり返してください。」と1人の女子が言いました。

みんなニコニコして私を見ています。

私は、「エイッ」といってその卓袱台を優しくひっくり返しました。

「やったー」生徒達は全員が拍手をして喜んでいました。

 

 なんていいクラスなんだろう。

 なんていい生徒なんだろう。

 怖い顔をして、教卓をぶっ壊した自分が恥ずかしくなってしまいました。

 

 それから私のクラスにはいつもボール紙の卓袱台が教室の前に置いてあります。いろいろな先生が「何だこれは?」と尋ねると、生徒たちは「おまじないです」と応えたそうです。

 

孫子の兵法の「戦わずして勝つ」とは、まさにこのことですね。参りました。

  

2022-09-01 11:59:00

其の四 ガラスが割れた

IMG_5122.jpeg

 

クレーム社会になりました。何にでもケチをつける。文句は言ったもん勝ち。役所でも、学校でも、企業でも、どこでもその対応に追われています。それで心が病んでしまう人も多いと思います。

学校でもモンスターペアレンツといわれる理不尽な保護者が増加しています。

 

困ったものだなあ。

 

私も長いこと学校の仕事や空手の指導者をやってきていますので、少なからず「クレーム」といわれるものは経験しています。個人レベルでの対応もありましたが、組織の長となってからの対応についてはいろいろと気付かされたことがありました。たまたま運がよかっただけかもしれませんが、揉めた相手ほどかえって仲良くなったような気がします。

 

支部長に配付した資料に次のようなできごとを紹介しました。

 

私が、内弟子を終了して、新任教員として赴任した学校は、いわゆる「荒れた学校」と呼ばれた学校で、教師と生徒、保護者との関係もよくない状況がありました。

私が赴任して間もない頃、こんなできごとがありました。

ある日、廊下の大きな窓ガラスが割れたのです。廊下には破片が飛び散り、大変な状況となっていました。たまたま私がその場所に1番手に駆けつけたのですが、そこで最初に言った言葉が

 

「怪我をした生徒はいなかったか?」

 

でした。

あたりまえのようですが、このことが、意外な反響を呼んだのです。

「今度来た若い先生は違う」「犯人捜しより生徒の安全を第一に考えてくれる」「この先生なら信頼できる」などと思わぬ信頼を得ることになったのでした。おそらく、これまでは「誰がやったんだ」から始まっていたのでしょう。荒れた学校でいつものように何かが壊されていれば当然の台詞かもしれません。私の場合も、結果的に何故ガラスが割れたのかという点については追求しましたので、最終的にはガラスを割った生徒を指導しています。

 

言葉の順序が違うだけで、こんなに受け取りが違ってくる一例です。

 

ちょっとしたボタンの掛け違いからクレームは発生します。たいていの場合、キチンと説明すれば「なんだそうだったか」になるのですが、感情が先走り、引っ込みがつかなくなってしまうともうどうしようもありません。また、子どもは自分に不都合なことは親に言わなかったりしますので、「うちの子に限って」「他にもいるでしょう」などと収拾がつかなくなってしまいます。

 

こんな話がありました。

ある学校でお金がなくなることが続きました。ある生徒が怪しいということになり、生徒指導の先生が、何人かの生徒に事情を聞くということで、本丸の生徒にも一応聞く形を取りました。その生徒は「何も知らない」で通したので、特に疑いや追求もせず「何かわかったら教えてね」という程度で帰しました。

その夜です。その生徒の父親がえらい剣幕で学校に電話をかけてきました。「俺の子どもを疑いやがったな。話を聞いた先生を出せ!」ということで、対応した先生は、事の経緯を丁寧に説明しましたが、「出るところへ出てやる」「どうなるかわかっているのか」という脅し文句の連発でした。「不愉快な思いをさせてすみませんでした。」とその先生は丁寧に謝罪して何とか電話を切ることができました。

 

結局その生徒が犯人でした。

 

その先生は、父親の電話からおそらくそうだろう読んでいました。その生徒から父親にどう伝わるかがねらいでしたので、その通りになったのです。その後、父親は学校に謝罪するわけではなく、電話にも出ません。バツが悪かったのでしょうね。学校は警察ではありませんので、ちゃんと謝って反省してくれればよいのです。大人はそれを教えてあげればよいだけなので、なにもけんか腰に電話をかけなくてよいのです。

 

このような話は山のようにあります。

言葉かけ1つで信頼を得る場合もあるし、失う場合もある。

落ち着いて話を聞けば、納得してよい関係を作ることもできる。

結局のところ、人と人は仲良くできればそれが1番よいのですから。

 

2022-07-22 13:16:00

其の三 川越道場のこと ~下駄箱の気持ち~

 image-21-07-22-09-58.jpeg  先日川越道場の玄関のつくりについて、昔の仲間に聞いたのですが、皆記憶が曖昧で、「下駄箱の位置はどうだっけ?」「松澤さん(当時の事務員さん)はどこに座ってたっけ?」などと、けっこういい加減なものでした。だいたいは思い出せたのですが、写真を撮っておけばよかったですね。

 私は、21歳の時から4年間、1980年代前半の頃でしょうか、埼玉県の川越道場の指導員をさせていただきました。今でいう本部直轄の分支部道場ですね。私が高校を卒業して盧山道場に入門し、2年目の末に西川口の地下本部道場が完成し、そこに「盧山泊」という内弟子寮ができたのでした。私もこれまで通いの内弟子でしたが、そこに住み込んでよい許可をいただき、寮生と共に生活をするようになった頃でした。そして、それまで川越道場を担当していた先輩が辞めることになったので、その後釜として私が指名されたのです。

 川越道場は、東武東上線川越駅の1つ手前の新河岸駅で降りて、徒歩5分もかからない、通りに面したとてもよい場所にありました。前任の先輩の指導がよかったのか、生徒も4~50人はいたと思います。私も何度か出稽古に行きましたが、ここはもともと盧山道場ではなく、極真会館を除名になった支部の道場の1つが傘下になったところなのでした。ですから、盧山師範の指導を歓迎する者ばかりではないという事情を持つ道場でしたから、なかなか難しい場所だったのです。前担当の先輩は、第1回の埼玉大会の優勝者でしたし、皆に一目置かれていた上に、指導も上手だったので、少年部のお母さん達にも人気がありました。また、一般部の連中にも実力で従わせることができる人でした。そこの道場は、もともとキックボクシングジムを併設しており、両方やっている者が多くいましたので、基本から丁寧に稽古をする指導には馴染みがありませんでした。実は私は、高校時代、盧山師範が福島に来る前にその支部の所沢道場で審査を受けたことがあり、そこで茶帯をもらっていたのです。それもあって、空手として認めてもらえず、なかなか黒帯になれなかったのかも知れませんね。今ではそれでよかったのですが。

 審査も空手の審査とは雰囲気が違いましたね。基本や型も多少はやりましたが、組手のコンビネーションやサンドバッグを叩かせるなど、キックボクシングの審査のような感じでした。あとは組手でしたが、顔面を狙って手を出してくるので、構えも攻め方もキックの試合のようでしたね。実は私はタックルが得意でしたので、この手の相手は、タックルでひっくり返して馬乗りになるパターンでした。この時も飛び込んでひっくり返し、馬乗りになって押さえつけました。お恥ずかしいですが、全然空手じゃないですよね。子どもの頃によく使ったケンカのテクニックが染みついて取れないのです。この時の審査の前に受けた審査は総本部で受けたのですが、その時もタックルでひっくり返し、馬乗りになって審判の黒帯に叱られました。大山倍達総裁の苦笑いを覚えています。

 昔の話はさておき、そんな道場に指導に行きましたので、「舐められてはいけない」「前の先輩に負けたくない」という変なプライドだけで道場に通いました。一応色帯だけれども前の道場では黒帯や茶帯だったという者もいましたので、二十歳を過ぎたばかりの若造の指導に従わない露骨な態度をする者もいました。「基本が大事」といって手直しをすると鼻で笑ったような生返事をする者もいました。

 実は私は、けっこう「短気」です。

 その瞬間にぶっ飛ばしていました。道場が凍り付くような場面でしたね。組手の場面では、態度の悪い者は徹底的にぶちのめしました。いつも、玄関の下駄箱まで追い詰めてトドメを刺し、頭から下駄箱にぶち込むということをよくやりました。見学者がいようと関係ありませんでした。今思えばひどい指導員でしたね。西川口の本部道場でもやったことがありますが、おそらく鏡で自分の顔を見たらとても恐ろしい顔をしていたかも知れません。

 案の定、生徒は激減しました。わずかな期間に1日の生徒数が10名を下回るようになってしまいました。事務の松澤さんにも小言を言われるようになりました。盧山師範からは、「今日の川越は何人だった。」と聞かれるようになりました。おそらく情報が入ったのでしょう。これではいけないと思いつつも、自分の稽古に心から従わない生徒たちに苛立ち、引っ込みがつかない状態に陥りました。西川口の指導ではそんなことはない(自分が思っているだけだったりして)ので、余計に悩みました。

 そんなある日のことでした。稽古が終わったときに、いつも指導を手伝ってくれた年配の黒帯の方が、「今日はウチで飲んでってよ」と誘ってくれたのです。この方のご自宅は酒屋さんでした。なぜか店にテーブルがあり、飲める場所があるのです。私はそこで遠慮なく一杯ごちそうになりました。その時、その方が最近の道場について語り始めたのです。「また小言かな?」と私は思いました。

 「あのね岡崎さん。川越のみんなは貴方がきてくれてとても喜んでいるんだよ。」

 「えっ、まさか、みんな嫌がっているんじゃないんですか?」

 「確かに貴方は怖い。いやな先生が来たと思った人もいたと思う。でも、あの厳しさはさすが盧山師範の弟子だと思う。」「そして、貴方のおかげで空手らしい空手が習えるようになったんだよ。」「柄の悪い先輩もいなくなったし。」「ただ、厳しいだけでは、貴方がもったいないよ。みんな近づけないよ。」「子どもたちなんていろいろ話を聞きたいんだと思うよ。」・・・・

 帰りの電車の中で、高校の頃、生意気で、柄の悪い大人が入ってくると絶対に許さなかった自分を思い出しました。その後、盧山師範にたたき直されたはずなのに。

「いかんなあ。また1からやり直しだなあ。」

 それから、稽古の厳しさは変わらないのですが、稽古の前後に意識的に話しかけるようにしました。仕事をしている人から見れば「なにをこの若造が。」と思われるかも知れないのですが、若造ならそれなりに教えてもらう気持ちで「なるほど」「そうすよね」と相手の話を聞くようにもしたのです。特に子どもたちには、好きなこと、学校のことなどちょっと聞くそぶりをしただけで群がってきました。前は稽古前に黙って砂袋を叩いていましたので、誰も話をしなかったのですね。稽古の前後には、送り迎えできた保護者や子どもに、玄関の下駄箱の前にしゃがんで「今日も頑張ろう」とか「今日は新しい型を覚えましたよ」などと話しかけるようにしたのです。そうすると、保護者からいろいろと玄関の下駄箱の前で話をしてくるようになり、「うちの子、先生の空手を楽しみにしてるよ」などと嬉しいことを言ってくれるようになったのです。お弁当の差し入れなんかも時々ありましたね。大人や学生達も稽古の後、残ってもうひと頑張り稽古する者が増えました。以前はさっさと帰っていましたが、「今日はこれを教えてやろう」「ミット付き合って欲しい」などと誘うと「俺も私も」と残る生徒が増えました。私も稽古相手が増えて、かえってよかったですね。顔面ありの組手も嫌がらずに残って付き合ってくれました。

 いつしか、稽古が終わってから、新河岸の駅前で飲み会などもやるようになりました。少年部、一般部それぞれに生徒も増えてきました。私は、帯ごとに役割を与え、後輩を教えさせるシステムを作りました。これが結構当たりで、面倒見のよい人間関係が道場の中に広がりました。少年部も同じです。「後輩の面倒を見ることができる人が本当に強い人だ」と教えるようになりました。ちょっと前の自分に言ってやりたいですね。やがて川越道場は140人もの大所帯になりました。

 あの恐怖の下駄箱が、今では友好の場所に変わったのです。道場に入ってくるときの顔、稽古が終わって帰るときの顔、そして私が最後に戸締まりするときにも、いつも何人かが一緒に付き合ってくれるほどになりました。

 川越道場は4年間指導に行きましたが、とても勉強になりました。その後の教員生活にも大いに役立つ経験をさせていただきました。この道場は数年前に取り壊されたそうです。現在はその近くで極真館埼玉西支部として活動しています。

 きっとあの下駄箱も、悲鳴と共にぶつかってくる大人より、笑顔の子どもたちの方がいいと思っていますよね。

1 2 3