館長便り

2023-03-10 15:00:00

其の十  自転車の話

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以前、秋の交通安全運動の立哨活動に協力したときのことです。川沿いの交差点の横断歩道の当番でしたが、その時ご一緒した年配の方と懐かしい話をすることができました。「昔のこの川は、もっと深くてよく素潜りで魚を捕ったなあ。」「筏を作って浮かべて遊んだなあ。」などと、まさに先に書いた「筏の話」の生き証人でした。「今の子どもに当時のこの川の話をしても信じないだろうなあ」などと私と二人で懐かしがっていましたね。私が小学6年生になるときに上流にダムができたために、河川工事が施され、川底がきれいに整備されて浅い平らな川底になってしまったのです。例の筏の冒険話は、その前の年のできごとで、当時の子どもたちの川へのお別れの儀式だったのかも知れません。

 小学生の冒険話をもう一つ書こうと思います。確か4年生の時でした。当時は4年生になると小学校で自転車の免許証を取ることができ、公道を自転車で走ることができたのです。特に男子は自分の自転車を買ってもらえるのが嬉しくて、自転車が乗れる広場は「チャリンコ族」の集会場でした。近くの自動車教習所が日曜日に解放されることがあり、その時は「チャリンコ族」は我先にと教習所に乗り付けました。「追い越し鬼」「ジャンプ」などと自分たちでルールを作って暗くなるまでワーワー遊んでいました。初めて会う者が多く、住んでいる町ごとに競い合ったり、ちょっと前の暴走族と変わりませんでしたね。ただ、ここで遊んだ誰もが、相当足腰が鍛えられたでしょうね。昭和40年代半ばの、どこに行っても子どもがあふれていた時代のことです。

 そんなある日、私はある冒険心にかられました。「自転車は便利な乗り物である。」「遠くまですいすい行ける。」「では遠くまで行ってみよう。」ということになったのでした。言い出しっぺが誰であれ、すぐに話に乗ってくるのがこの頃の子どもでした。

 白河街道を行けるところまで行ってみよう。石川町から白河市の中心部まで27~8㎞というところでしょうか。日曜日に数名の男子が集まり出発したのでした。私は、小学2年生の時、ある道を行けるところまで行ってみようと友達と二人で歩き続け、そのまま夜になってしまい、他人の家に泊めてもらったことがあります。次の日、自分の家まで送り届けてもらったのですが、冒険心というよりは行き当たりばったりの放浪癖かも知れませんね。さて、白河街道の挑戦です。やる気はあっても計画性のない子どもたちですので、まず出発時間が遅かった。昼間の暑いときにヒイヒイいいながら自転車をこぎました。今と違って自動車の少ない時代でしたので、安全な旅ではあったのですが、弁当も持たず、お金も持たず、賢さのかけらもない挑戦でした。一番のあんぽんたんは、どこまで行ったら引き返すかを決めていないことでした。誰も時計なんて持っていません。何と無計画な挑戦でしょう。とにかく喉が渇きました。水筒なんて気の利くものを持っている者はいません。今時なら熱中症になってしまいますよね。

 どれくらい走ったでしょうか。「白河市」という標識が見えたときは、みんなで歓声をあげ喜びました。しかし、誰もがもう限界でした。「帰ろうよ」とはいえないところが男子の変な意地でした。そのうち道路脇に小学校が見えました。「やった。水道がある。」と子どもたちは力を振り絞って校庭にある水飲み場で我先に水をがぶ飲みしました。この時は学校名など知りもしませんでしたが、現在も白河市立五箇小学校として存在しています。今になって調べてみると、ちょうど当時の自宅から20㎞ほどの地点にあります。水をたらふく飲んで元気を取り戻した私たちは、「帰ろう」ということになりました。少しずつ空が赤くなってきたからです。日が沈む前に帰りたい。みんな力を振り絞って自転車をこぎました。「石川町」という標識を見たとき、みんな嬉しくて泣きたいくらいでした。そんなときハプニングが起こりました。私の自転車のチェーンが外れたのです。後輪の車軸に食い込んでしまい、車輪は動くのですが、ペダルが動かない状態です。仕方がないので押して歩くしかありませんでした。もう夕暮れ時で、あたりは薄暗くなっています。石川駅まであと4㎞という標識がありました。私は、「俺は大丈夫だからみんなは先に帰ってっていいよ」といいました。「いや、おれたちも一緒に」とは誰も言いませんでした。「わりいな、お先に」とさっさと帰って行きました。乗りはいいのですが、薄情な連中でしたね。

 あたりは真っ暗になってきました。困ったことに後輪が回らなくなってきました。もはや引きずるような状態です。ここに自転車を置いていこうかなとも思いましたが、親が激怒するだろうなと思い、あきらめずに引きずっていました。当時あった職業訓練校の前を通ったその時でした。一人の青年が「どうした」と近寄ってきました。私は事情を話すと、その青年は訓練校に入り、工具を持ってきたのです。そして、手際よく固まったチェーンを外してくれました。「これで大丈夫だ。気をつけて帰りな。」「ありがとうございました。」私は名前も確かめずに急いで帰りました。未だにその青年には何の御礼もできていないのが恥ずかしい限りです。これで私の自転車冒険話は終わりです。

 教員になってからのことです。郡山のある中学校でこの話をしたところ、生徒たちにはバカ受けでした。それで終わればよかったのですが、休み明けの朝、私のクラスの元気な男子が数名集まってきてこう言いました。「先生、俺たちもやったぜ。」「先生の記録を越えたぜ。」ようするに、自分たちも自転車冒険をしてきたことをいいたかったのです。どこまで行ったと聞くと、「猪苗代湖です。」と応えました。片道30㎞の距離です。国道49号線の延々と続く緩い登り道をよく行ったものでした。立場上注意はしたものの「お前らやったな。」とちょっと褒めてやりました。時代が変わっても、まだまだ冒険心は子どもたちの心に健在ですね。とはいってもこの話は20数年前の話ですが。

2023-02-28 15:55:00

其の九  手弁当の話

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「手弁当」とは、「自分で弁当を用意して持って行くこと。」「自費で、あることのために働くこと。」という意味の言葉です。「ボランティア」という言葉に置き換えるのではなく、この「手弁当」という響きが私は好きですね。学校で働いていたからでしょうか、この手弁当という行為にどれだけ助けられたか、思い出すたびに感謝の言葉しかありません。早朝からの草刈りや廃品回収など、仕事で疲れているだろうに、多くの保護者の方々に助けられてきました。

 学校では「子どものために」という大義名分があります。しかし今の時代では、なかなか手弁当といって気安く協力を求めづらくなってきました。それなりの対価を要求されたり、引き受ける側も責任を持つことを嫌がったりするのも確かです。有名な西郷隆盛は、「決してタダで人を使ってはならん」という主義の方だったらしく、自分のために働きをした人には、お金だったり、それがなければ自分の着ているものでもお礼といって相手に持たせてやったそうです。私の父も何かと身の回りのものを他人にあげる癖があり、もらった方も捨てるに捨てることができずいい迷惑だったかも知れません。これもひとつのあり方なのでしょう。しかし、西郷さんは最後に自分の命をあげてしまいましたけどね。

 ある歴史小説家が、このようなことを書いていました。『日本人の特質の中に「関わる」という部分がある。これは、頼まれる訳ではなく、対価を求める訳でもなく、何事かの役に立つ一粒の種のような存在になることに、ごく自然に労を惜しまず行動することができる。自分の存在がその記録に残ることすら望まず、唯々その場に尽くすこと』だそうです。これは、農耕民族の持つ特質かも知れません。私は、子どもの頃から地域の奉仕活動に参加させられてきました。朝早くから、草を刈ったり、ドブ掃除をしたり、大人に混じって働いてきました。側溝の(ふた)を外すのが上手いと褒められては調子に乗ってポンポン外して腰を痛めていましたね。でも、作業が終わった時のなんともいえない達成感が心地よかったです。最近では、それがいやだから隣組に入らないとか、危ないから子どもは参加させないとか、中には、お金を出し合ってシルバー人材にやってもらうとか、なにか寂しい話をあちこちで聞きます。

 自分がその土地で暮らす、ある集団に所属するなど、人は何かの関わりの中で生きています。その関わりが地域を作り、組織を作り、社会を作り上げていくのです。現代社会は、この「関わる」という日本人の持つ特質、美徳といってもよい行為を忘れているかも知れません。

 私たちは、極真空手を学び、極真館という武道団体に所属しています。肩書きや対価の問題ではなく、誰もがそこに関わり、よりよい成果を上げることができれば、おそらく「嬉しい」のではないでしょうか。自分が空手をやっているわけでなくとも、子どもに習わせている場合でも、「関わる」ことはできるはずです。

福島の大会で、ある小学生の選手が、試合の前に私のところにあいさつに来て、「お母さんは大会の手伝いをしていてボクの応援ができないかも知れないから、絶対トロフィーをもらうところを見せてあげるんだ。」といいました。閉会式で、私はその子にトロフィーを渡すことができました。お母さんは喜んでいたでしょうね。

 大会は、選手だけではなく、多くの人が「関わる」ことによって成り立つイベントです。トイレのスリッパを気づいたらキチンと並べることだけでも、その大会が成功するために「関わる」行為ですよ。

2023-02-14 10:53:00

其の八  礼に始まり、礼に終わるのかい?

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 武道の世界では、「礼に始まり、礼に終わる」という教えが定番になっています。極真館でも試合の始めと終わりの礼などは、特に厳しく指導しています。剣道などでも礼法はとてもしっかりと指導していますね。このことは、武道に限らず、野球やサッカーなど、あらゆるスポーツでも推奨されています。それぞれのやり方はありますが、「礼に始まり、礼に終わる」という教えはたいへんよいことだと思います。

 でも、

 

 礼に始まり、礼に終わるのかい?

 

 と、あえて書いてみました。

 ある学校でのできごとです。

 大規模校で、部活動も活発で、特に大きな問題のある学校ではないのですが、そこに転勤していつも気になっていたことがありました。「あいさつをしない」のです。廊下ですれ違っても、こちらからしないとまずしないのですね。する生徒はするのですが、しない生徒はしらーっと通り過ぎます。そのくせ、職員室に入るときや、部活動の時だけは、大きな声で挨拶をするのですね。私はいつも変な違和感を感じていました。

 ある日のことです。放課後、私はいつも体育館の中を通り過ぎて、となりの武道館に空手部の指導に行くのですが、体育館に入ったときに中で活動している部が一斉に練習をやめて、全員がこちらを向き、「先生、こんにちはー」「こんにちはー!」と大きな声で一斉に挨拶してきたのです。いつもの姿ではありましたが、日頃廊下などでろくに挨拶もできないくせに、このときばかりとやっている形だけの挨拶が気に入らなかったので、この日はついに、

 

 「おまえら!普段ろくに挨拶もしないくせに、こんな時だけわざとらしい挨拶するな!」と一喝してしまいました。

 

体育館を凍りつかせてしまいましたね。いかんなあ。

 でも、実際そうですよね。普段の生活でろくな挨拶もできないのに、部活動の時だけ、大声を張り上げて挨拶するのは変だと思うのです。普段から挨拶ができているなら気持ちのよい事なのですが。

 また、「先生がしないから挨拶ができない」などと言う人もいます。これをやってしまうと挨拶をしないのは先生のせいになり、挨拶本来の姿ではなくなってしまいますよね。私は、挨拶は相手がしようがしまいが、「自分から」するものだと教えてきました。挨拶は、「すること」が大事なのですよね。ただ、お手本となるべき大人達が結構挨拶ができなくなってきました。これでは、なかなかよい挨拶ができるようにはなりませんよね。大人同士が自然と挨拶を交わす場面を見せていけば、子どもは自然と挨拶をするようになるものです。

 ある学校で、生徒会に挨拶について投げかけたときがあります。なぜ挨拶が必要か、どのような挨拶がよいのかを考えさせたのですが、生徒たちは自分たちで考えた結果「相手より先に」というスローガンが生まれたのです。学校の雰囲気がとてもよくなりました。生徒もなかなかやりますね。

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 さて、「礼」についてですが、昔の中国、戦国の世に生まれた言葉(教え)だそうです。諸説ありますが、相手を思いやる心を「仁」といい、それを形に表したものを「礼」というそうです。

 思いやりとは、相手のために自分の時間を割くことであるともいわれますが、礼という作法、行為はとても面倒なことです。しかし、この面倒な行為を相手のために時間を割いて行うことが「仁」なのです。

 また、作法として頭を下げるという動作は、自分の急所を相手に無防備に晒すことであり、両手を前に出すことも、手には何も持っていない、ようするに相手に危害を加えない、「敵意がない」ことを表す行為なのです。したがって、「礼」は、戦国の世においては「自分は敵ではない」ことを相手に示し、「自分の身を守る」術だったのです。今では相手を尊敬するとか感謝するという意味が主なものとなっていると思いますが、どの理由にせよ正しく礼の作法を行うことは、互いに安全な信頼関係をつくることになるのです。これは、現代にも通じることかも知れません。正しく、心を込めた「礼」をすることは、試合や練習だけではなく、平素の振る舞いの中で実行してこそ、本当の「礼」の姿となるのではないでしょうか。ですから、「礼に始まり、礼に終わる」だけでいいのかい?となるのです。

 

 「礼」には、始まりも終わりもないのです。「兵法は、平法なり」ということばがありますが、まさにその通りですよね。「礼」とは平常の行為でなければならないのです。まずは、朝の「おはようございます」からですね。

 

 余計な話を1つ。

 30年ほど昔、仙台のスポーツセンターで行われた東北大会のときのことです。今と違って、試合場は1つで、大勢の観客が取り囲む会場でした。テレビ中継もありました。

 私が主審を務めた準決勝の試合後のできごとです。判定で負けた選手が、ふてくされた態度で礼をして、試合場を降りるなり、グローブを床にたたきつけたのです。それを見てしまった私は、試合場から飛び降りて選手をアリーナの端まで引きずっていき、「お前、今何やった!ここをどこだと思ってんだ!!」とピンマイクをつけたまま壁ドンして怒鳴ってしまいました。会場が一瞬にして凍り付き、その選手は顔面蒼白でしどろもどろで謝っていました。「しまった。またやってしまった。」と反省しました。選手にとっては、負けたときこそ、その態度が修行の表れなんですから。

 

 こんな話もあります。

 私が香取神道流を学びに、茨城のある道場に初めて行ったときのことです。すぐには道場に入れてもらえず、台所で「好きに稽古して待ってろ」と言われ、1時間半近く台所の板間で一人黙々と無外流の一本目の形をずっと続けていました。冷蔵庫やテーブルにぶつけないように刀を抜き続けました。「入っていいぞ」という言葉を頂き、道場に入ることができました。何人かのお弟子さん達がいて、稽古中だったのですね。私は、入口で正座をし、刀を右に置いて「よろしくお願いします」と礼をしてから道場に入りました。その時先生が、自分の弟子達に「今の礼の仕方を見たか、道場に入るときはこうするものだ。お前達も見習え。」ということを言ったのです。私にしては当たり前の作法なのですが、たいへん感心していただき、他のお弟子さん達と分け隔てなく、いろいろなご指導を頂くことができました。台所で一人黙々と稽古をしていたのもよかったのかも知れません。この道場の入り方は、下関で無外流の塩川先生にご指導いただいたものなのですが、礼の仕方1つでガラリと扱いが変わったお話です。

 

何にせよ、武道の世界に限らず「礼」は基本中の基本です。

「仁」を形にしたものが「礼」である。これには続きがあり、正しき「礼」から「信」が生まれるのです。

2022-12-16 13:51:00

其の七 冒険者たち~筏(いかだ)の話~

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昔、マーク・トゥエインの短編集を読みました。

 マーク・トゥエインといえば、アメリカを代表する作家で、「トム・ソーヤーの冒険」は知らない人はいないですよね。このお話は、マーク・トゥエインの少年時代がモデルになっており、自身あるいは友達との間に実際に起きたことがもとになっていて、世界中の子どもたち、また昔の子どもだった人たちに愛読されました。アメリカ南北戦争の少し後に出版され、アメリカという新しい国が、もっともアメリカらしかった時代を背景としていました。ミズーリ州を流れるミシシッピ川沿いの町を舞台として、子どもたちの冒険話は、今でも楽しめる名作です。

 私はちょっとへそ曲がりなので、マーク・トゥエインという作家にまず興味を持ち、「トム・ソーヤーの冒険」よりも短編集の方から読み始めたのでした。当時のアメリカ人のちょっと個性的で粋なお話がとても面白かったです。最近思い出してまた読んでみました。昔の文庫本は字が小さくて疲れましたが、やっぱり面白かったですね。

 さて、マーク・トゥエインの事を書こうとしている訳ではありません。

 「冒険」という言葉、行為が今はどうなっているのだろうか?ということです。おそらくゲームの中でたくさんの疑似体験はできているのでしょうが、実際の草むら、岩場、泥水、土砂降りの雨など、直接体感できる「冒険」は難しい時代になったのかも知れませんね。いつも「何かあったらどうする」「誰が責任を取るんだ」のおきまりの言葉で、大人の目の中だけの体験活動になってしまっています。特に学校などはやりにくくて当然の社会になっていますね。大人の目の届かない世界に子どもたちの本当の冒険があるのですから。

 私が子どもの頃の記憶にこんなものがあります。家の近くに今出川という小さな川が流れています。そこに借宿橋という橋があり、その下は子どもたちの遊び場でした。当時の川は、今と違って河川工事や水量調節などありませんでしたので、深い場所がたくさんありました。確か私が5,6歳の頃だったと思いますが、私は悪ガキ達の中で1番年下でしたので、いつも何かの実験台にされていました。ある日「畳が人を乗せて浮くか」という訳のわからない実験をすることになりました。よくそんなバカなことを考えつくものだと思いますが、その畳に乗るのは私ということになりました。どこからか古い畳が運ばれてきました。私がその上に乗せられ、何人もの手で川まで運ばれ、「せーの」とかけ声と共に川に放りこまれました。

 

  浮かぶはずがありません。

 

 ズブズブと沈んでいく畳の真ん中に素直に乗っている私は、こちらを指さしながらワイワイ騒いでいる年上の子どもたちを見ながら、川の中に沈んでいったのです。

 どうやって助かったかは記憶にないのですが、あの沈む感覚だけはよく覚えています。その時のガキ大将がやがて中学校の校長になり、私が教頭で仕えたというおまけの話を加えておきます。

 

 私の育った町は、マーク・トゥエインのミシシッピ川ほどではありませんが、阿武隈川の支流が町の中を流れており、子どもたちはよく川で遊んでいました。私が小学校6年の時に上流にダムができたために、川底が整備され、深みのない人工的な川に変わってしまいました。私は、そうなる前に何かやってやろうと思いました。どこで思いついたかはわかりませんが、「筏で川下りをやってみよう」という発案をしたのです。この頃の子どもたちは、こういう話にはすぐに乗ってきます。「やろう」「やろう」とすぐ行動に移るのがいいですね。なぜそんなすぐに行動に移せるのか。それは「先のことを考えない」からなのです。「まずはやってしまおう」という共通理解で筏づくりが始まりました。暑い夏休みだったなあ。朝早くから、何人もの悪ガキ達が木材や太い竹、荒縄、ロープなどそれぞれが出発点の河原に持ってきます。「ああでもない」「こうでもない」と組み立てますが、なかなか上手くいかない。何とか形になったが今度は浮かばない。人が乗ったら沈んで進まない。お昼ご飯も忘れて昼過ぎまで筏づくりをしていました。とにかく暑かったなあ。

 

ようやく一人だけ乗せて浮かぶ筏ができた。

 

もうそれでいい。はやくしないと日が暮れるという状況になってきました。とにかく出発です。

思ったより、筏はすいすいと流されていきました。子どもたちは交代で筏に乗り、後は川沿いの土手や道路を走って追いかけました。あちこちで人が立ち止まって私たちを見ていました。私たちは、妙に誇らしく、嬉しさがこみ上げてきました。当時の大人は「危ないだろう」なんて誰も言ってきませんでしたね。

 今になって私たちの筏の移動距離を調べたところ2キロくらいでしょうか。自動車で行けばあっという間でしょうか。子ども達にとっては大冒険でしたね。

 川がだんだん深くなり、仲間が川を併走することも難しくなったので、子どもなりに限界を判断し、「ここまで」と川下りをやめました。川岸に筏を寄せて、初めて気づいたのですが、「この筏どうする?」ということになりました。子どもの浅知恵ですね。その後を考えていなかったのです。陸に揚げて持って帰るわけにも行かず、そのまま流して知らんぷりをするわけにもいかず、結局は川岸に接岸して、とりあえず今日のところは帰ることにしました。次のことはあとで考えようということになったのですが、先のことは考えない当時の悪ガキ達は、すっかり忘れて、次の日からまた新しい冒険を探しに行ってしまったのでした。

 その後、あの筏はどうなったのでしょうか。

 私の小学生の頃の冒険話でした。

 

 

やったことは、例え失敗しても、20年後には、笑い話にできる。
しかし、やらなかったことは、20年後には、後悔するだけだ。

- マーク・トウェイン -

 

2022-12-05 09:38:00

其の六 支部長たる者は

IMG_5801.jpeg 私が極真空手(当時の極真会館)の福島県支部長になったのは、34歳(平成7年)の年の6月のことでした。

 私は、高校時代、福島県南支部の郡山道場で指導員をしていましたが、高校卒業後盧山師範のもとで6年間内弟子として修行をした後、中学校の教員として就職し、福島県に戻りました。その後、もとの支部で師範代となり、地元石川町では分支部長として、空手を続けていました。

 ところが、大山倍達総裁がご逝去され、極真空手は分裂を繰り返すようになりました。私は、盧山師範について行くだけなので、何の迷いもありませんでしたが、所属していた支部長が除名となったことから、私に支部長の役目が回ってきたのです。

 6月のある日のことでした。仕事場に盧山師範から電話がかかってきました。「(当時の)館長から何か頼まれると思うが、絶対断るなよ。」でした。何のことかわかりませんでしたが、返事は「オス」しかありません。その後まもなく館長から電話がかかってきました。「支部長になってください。」ということでした。これも「オス」しかありませんよね。こんな大事なことを心の準備もないままに「オス」で済ませてしまうというとんでもない世界ですね。

 

 さあ、どうしよう。

 

 支部長というものは、全国組織の中で、福島県というエリアの統括を任されるわけで、会員の管理や審査、大会の開催をするなどの権限が与えられるのです。職業とすれば、支店長というような意味にもなるでしょうし、私は公務員でしたので、報酬はもらわないけれども組織のまとめ役として責任を果たすということはしなければならないのでした。今まで、師範代とか分支部長とか、気楽に(?)やってきた私が、『全体』ということを考え、責任を負う立場になったのです。福島県内はもちろん、全国の一支部としての立場も出てきます。ただ、趣味の延長で気の合う仲間を集めて御山の大将のような活動をする訳にはいかないのです。また、「総本部を助ける」という役目も重要です。当時の極真会館という組織があっての支部ですので、自分のわがままや怠慢で総本部の足を引っ張るわけにはいきません。組織全体が発展してこその支部ですので、支部は組織の脇役ではないのです。ですから私は総本部の事業には積極的に協力したものです。機関誌など会員数分購入し、会員に無料で配ったりもしました。ただしこれはもともと会費の中に含めたものなので、実際は無料ではなく、会費の中でちゃんと払っているわけです。これもちょっとした工夫ですね。支部によっては、ほしい奴だけ買えばいいなどといって数冊しか協力しない場合も多く見られました。その組織に機関誌があり、一般の書店にそれが売られていることのメリットを考えたら、どの支部も協力するべきなのではないでしょうか。だいたい2000部売れれば、出版社は機関誌を作ってくれます。各支部で協力すれば2000部なんてあっという間だと思うのですが。ちなみに当時の福島県支部では350部購入していました。これは、本部によい顔をしようとして行った訳ではありません。実はこれには意外な宣伝効果があるという見通しがあってのことでしたので、やがて会員数が500名を超える大きな力になりました。

 「今年中に大会を開いてください」という指令がありました。6月に支部となったばかりなのに、年内に大会を開くなんて無理だと思いますよね。でもやるしかないのがこの世界です。いろいろ考えました。場所の確保、運営の準備などは、仕事柄慣れたものではあったので、「やれるだけやってみよう」ということにしました。そうすると不思議なもので、保護者やジムの仲間が後援会を結成してくれたり、広告を集めてくれたり、短期間でなんとか大会の準備をすることができました。大会は、12月の寒い日でした。盧山師範も来賓で来てくれました。埼玉の仲間も審判などで駆けつけてくれました。こうして第1回福島県大会が開催されました。型と組手併せて60名ほどの小さな大会でしたが、地域では大きな注目を集めた大会でした。型の試合などは、当時の極真空手では試合形式が確立しておらず、盧山師範がたった一人で審判を行い、入賞者をすべて一人で決めました。前代未聞ですが、その「見る目」には、唯々驚かされました。盧山師範には「福島は寒かったぞ。風邪引いたぞ。」としばらく会う度に言われましたが、それから27年間、福島県大会、南東北大会、東日本大会と発展した私達の大会すべてに盧山師範は来てくださっています。「あん時は寒かったな。」「あん時もらったリンゴはおいしかったな。」と今でもお覚えてくださっています。

 極真会館から極真館に変わっても、支部長の役目は変わりません。

 

組織の看板を背負っている

 

 まずはそれです。「看板に偽りなし」ということですね。

 極真会館時代は、「型競技を作ってほしい。型を整理してほしい。」という指示を受けて、型競技委員会がつくられ、現在の型競技が実施されるようになりました。極真館になってからは、さらに武器術が加わり、空手本来の稽古方法に立ち返る内容に発展してきたのです。「競技空手」から「武道空手」に原点回帰したのですね。

 となると、支部長たるものは、この組織の方針を己の支部に徹底することが責務とされるのです。私自身は、型も武器術も内弟子時代からの稽古の一環として行っているだけで、「そんなもの自分でやるもんだ」と思っていましたから競技化など考えもしませんでした。しかし、本部の意向ですので、支部としてもその方針に従い、いろいろと工夫して指導に取り入れたものでした。これについては、分支部長や黒帯の指導員達がよく理解し、協力してくれました。福島県は分支部が多く、広範囲に道場があるため、指導員を集めての練習会を年に何度も行い、指導内容の共有を行いました。それぞれの好き嫌いはあるのでしょうが、「看板に偽りなし」の指導を行っている道場ほど会員数を伸ばし、組手も型も結果を出すようになりましたので、黒帯同士の情報共有と「学び合い」が私の支部経営の柱となりました。御山の大将は要らないのです。常に足下と全体を見る目が、指導者には必要です。

 「たいへんだ」「たいへんだ」「あれもこれもやってらんねえ」という人も多くいますが、結果として、「看板に偽りなし」という方針で支部経営をすることにより、徐々に会員が増加していきました。ニーズの多様化に対応しているということですね。

 大会にも協力しなくてはいけない。合宿も参加しなくてはいけない。あれもこれも教えなくてはいけない。外部のクレームも対応しなくてはいけない。強い生徒も育てなくてはいけない。たくさんの生徒も集めなければならない・・・・「ああ大変だ。支部長なんてやってらんねえ。」

 

 私も何度思ったことかわかりません。

 

 でも、組織の中で、誰かが、盾となり、日傘となり、みんなの生きる場を作ってやるという役目を負わなければならないとしたら「それもありかな」と思ったものでした。教えるために自分自身がもっと稽古をしようとさらに頑張ったものでした。結果として、それらのことは自分自身のためになったのかも知れません。

 

 思いやりとは、他人のために自分の時間を割くこと

 

 と中学校の生徒に教えたことがあります。感謝をされるとか、何かをもらうとか、そんなことよりも誰かが喜んだり、励まされたりする場面をつくりあげるために自分の時間を惜しまず割いて関わっていく。その結果、達成感を味わい、喜ぶ人たちの姿を遠目に見ることが私は好きですね。

 

 例えば、学校の文化祭で、閉会式で体育館の天井から吊したくす玉を実行委員長がひもを引いてうまく割れたとき、全校生が歓声をあげ、みんなキラキラとした笑顔、泣き顔をするときなんて、特に好きな場面でしたね。

 ただのお遊びイベントではなく、「文化祭とは何か」、「学校とは何を学ぶべきところか」というこだわりがある活動をしたからこそ本物の感動が生まれるのです。まさに「学校という看板に偽りなし」ですね。

 支部長には、誰もがなれるわけではありません。自分が望まなくても、誰かに押しつけられても何でもいいのです。

なった以上は「看板に偽りなし」です。

 

今、支部長として頑張っている人たちには、本当に頭が下がります。環境や条件もそれぞれに違い、なかなか会員が集まらなかったり、逆に多すぎて指導の手が回らなくなったり、苦労の連続だと思います。

私も、かつてはたった一人で体育館を開けて、たった一人で稽古をして、たった一人で鍵を閉めて帰ったことなど何度もありました。今思えば懐かしい思い出です。

 

支部長たる者は、東郷平八郎のマスト登りのごとくあれ。

 

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