館長便り
其の十 自転車の話
以前、秋の交通安全運動の立哨活動に協力したときのことです。川沿いの交差点の横断歩道の当番でしたが、その時ご一緒した年配の方と懐かしい話をすることができました。「昔のこの川は、もっと深くてよく素潜りで魚を捕ったなあ。」「筏を作って浮かべて遊んだなあ。」などと、まさに先に書いた「筏の話」の生き証人でした。「今の子どもに当時のこの川の話をしても信じないだろうなあ」などと私と二人で懐かしがっていましたね。私が小学6年生になるときに上流にダムができたために、河川工事が施され、川底がきれいに整備されて浅い平らな川底になってしまったのです。例の筏の冒険話は、その前の年のできごとで、当時の子どもたちの川へのお別れの儀式だったのかも知れません。
小学生の冒険話をもう一つ書こうと思います。確か4年生の時でした。当時は4年生になると小学校で自転車の免許証を取ることができ、公道を自転車で走ることができたのです。特に男子は自分の自転車を買ってもらえるのが嬉しくて、自転車が乗れる広場は「チャリンコ族」の集会場でした。近くの自動車教習所が日曜日に解放されることがあり、その時は「チャリンコ族」は我先にと教習所に乗り付けました。「追い越し鬼」「ジャンプ」などと自分たちでルールを作って暗くなるまでワーワー遊んでいました。初めて会う者が多く、住んでいる町ごとに競い合ったり、ちょっと前の暴走族と変わりませんでしたね。ただ、ここで遊んだ誰もが、相当足腰が鍛えられたでしょうね。昭和40年代半ばの、どこに行っても子どもがあふれていた時代のことです。
そんなある日、私はある冒険心にかられました。「自転車は便利な乗り物である。」「遠くまですいすい行ける。」「では遠くまで行ってみよう。」ということになったのでした。言い出しっぺが誰であれ、すぐに話に乗ってくるのがこの頃の子どもでした。
白河街道を行けるところまで行ってみよう。石川町から白河市の中心部まで27~8㎞というところでしょうか。日曜日に数名の男子が集まり出発したのでした。私は、小学2年生の時、ある道を行けるところまで行ってみようと友達と二人で歩き続け、そのまま夜になってしまい、他人の家に泊めてもらったことがあります。次の日、自分の家まで送り届けてもらったのですが、冒険心というよりは行き当たりばったりの放浪癖かも知れませんね。さて、白河街道の挑戦です。やる気はあっても計画性のない子どもたちですので、まず出発時間が遅かった。昼間の暑いときにヒイヒイいいながら自転車をこぎました。今と違って自動車の少ない時代でしたので、安全な旅ではあったのですが、弁当も持たず、お金も持たず、賢さのかけらもない挑戦でした。一番のあんぽんたんは、どこまで行ったら引き返すかを決めていないことでした。誰も時計なんて持っていません。何と無計画な挑戦でしょう。とにかく喉が渇きました。水筒なんて気の利くものを持っている者はいません。今時なら熱中症になってしまいますよね。
どれくらい走ったでしょうか。「白河市」という標識が見えたときは、みんなで歓声をあげ喜びました。しかし、誰もがもう限界でした。「帰ろうよ」とはいえないところが男子の変な意地でした。そのうち道路脇に小学校が見えました。「やった。水道がある。」と子どもたちは力を振り絞って校庭にある水飲み場で我先に水をがぶ飲みしました。この時は学校名など知りもしませんでしたが、現在も白河市立五箇小学校として存在しています。今になって調べてみると、ちょうど当時の自宅から20㎞ほどの地点にあります。水をたらふく飲んで元気を取り戻した私たちは、「帰ろう」ということになりました。少しずつ空が赤くなってきたからです。日が沈む前に帰りたい。みんな力を振り絞って自転車をこぎました。「石川町」という標識を見たとき、みんな嬉しくて泣きたいくらいでした。そんなときハプニングが起こりました。私の自転車のチェーンが外れたのです。後輪の車軸に食い込んでしまい、車輪は動くのですが、ペダルが動かない状態です。仕方がないので押して歩くしかありませんでした。もう夕暮れ時で、あたりは薄暗くなっています。石川駅まであと4㎞という標識がありました。私は、「俺は大丈夫だからみんなは先に帰ってっていいよ」といいました。「いや、おれたちも一緒に」とは誰も言いませんでした。「わりいな、お先に」とさっさと帰って行きました。乗りはいいのですが、薄情な連中でしたね。
あたりは真っ暗になってきました。困ったことに後輪が回らなくなってきました。もはや引きずるような状態です。ここに自転車を置いていこうかなとも思いましたが、親が激怒するだろうなと思い、あきらめずに引きずっていました。当時あった職業訓練校の前を通ったその時でした。一人の青年が「どうした」と近寄ってきました。私は事情を話すと、その青年は訓練校に入り、工具を持ってきたのです。そして、手際よく固まったチェーンを外してくれました。「これで大丈夫だ。気をつけて帰りな。」「ありがとうございました。」私は名前も確かめずに急いで帰りました。未だにその青年には何の御礼もできていないのが恥ずかしい限りです。これで私の自転車冒険話は終わりです。
教員になってからのことです。郡山のある中学校でこの話をしたところ、生徒たちにはバカ受けでした。それで終わればよかったのですが、休み明けの朝、私のクラスの元気な男子が数名集まってきてこう言いました。「先生、俺たちもやったぜ。」「先生の記録を越えたぜ。」ようするに、自分たちも自転車冒険をしてきたことをいいたかったのです。どこまで行ったと聞くと、「猪苗代湖です。」と応えました。片道30㎞の距離です。国道49号線の延々と続く緩い登り道をよく行ったものでした。立場上注意はしたものの「お前らやったな。」とちょっと褒めてやりました。時代が変わっても、まだまだ冒険心は子どもたちの心に健在ですね。とはいってもこの話は20数年前の話ですが。