館長便り

2023-02-28 15:55:00

其の九  手弁当の話

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「手弁当」とは、「自分で弁当を用意して持って行くこと。」「自費で、あることのために働くこと。」という意味の言葉です。「ボランティア」という言葉に置き換えるのではなく、この「手弁当」という響きが私は好きですね。学校で働いていたからでしょうか、この手弁当という行為にどれだけ助けられたか、思い出すたびに感謝の言葉しかありません。早朝からの草刈りや廃品回収など、仕事で疲れているだろうに、多くの保護者の方々に助けられてきました。

 学校では「子どものために」という大義名分があります。しかし今の時代では、なかなか手弁当といって気安く協力を求めづらくなってきました。それなりの対価を要求されたり、引き受ける側も責任を持つことを嫌がったりするのも確かです。有名な西郷隆盛は、「決してタダで人を使ってはならん」という主義の方だったらしく、自分のために働きをした人には、お金だったり、それがなければ自分の着ているものでもお礼といって相手に持たせてやったそうです。私の父も何かと身の回りのものを他人にあげる癖があり、もらった方も捨てるに捨てることができずいい迷惑だったかも知れません。これもひとつのあり方なのでしょう。しかし、西郷さんは最後に自分の命をあげてしまいましたけどね。

 ある歴史小説家が、このようなことを書いていました。『日本人の特質の中に「関わる」という部分がある。これは、頼まれる訳ではなく、対価を求める訳でもなく、何事かの役に立つ一粒の種のような存在になることに、ごく自然に労を惜しまず行動することができる。自分の存在がその記録に残ることすら望まず、唯々その場に尽くすこと』だそうです。これは、農耕民族の持つ特質かも知れません。私は、子どもの頃から地域の奉仕活動に参加させられてきました。朝早くから、草を刈ったり、ドブ掃除をしたり、大人に混じって働いてきました。側溝の(ふた)を外すのが上手いと褒められては調子に乗ってポンポン外して腰を痛めていましたね。でも、作業が終わった時のなんともいえない達成感が心地よかったです。最近では、それがいやだから隣組に入らないとか、危ないから子どもは参加させないとか、中には、お金を出し合ってシルバー人材にやってもらうとか、なにか寂しい話をあちこちで聞きます。

 自分がその土地で暮らす、ある集団に所属するなど、人は何かの関わりの中で生きています。その関わりが地域を作り、組織を作り、社会を作り上げていくのです。現代社会は、この「関わる」という日本人の持つ特質、美徳といってもよい行為を忘れているかも知れません。

 私たちは、極真空手を学び、極真館という武道団体に所属しています。肩書きや対価の問題ではなく、誰もがそこに関わり、よりよい成果を上げることができれば、おそらく「嬉しい」のではないでしょうか。自分が空手をやっているわけでなくとも、子どもに習わせている場合でも、「関わる」ことはできるはずです。

福島の大会で、ある小学生の選手が、試合の前に私のところにあいさつに来て、「お母さんは大会の手伝いをしていてボクの応援ができないかも知れないから、絶対トロフィーをもらうところを見せてあげるんだ。」といいました。閉会式で、私はその子にトロフィーを渡すことができました。お母さんは喜んでいたでしょうね。

 大会は、選手だけではなく、多くの人が「関わる」ことによって成り立つイベントです。トイレのスリッパを気づいたらキチンと並べることだけでも、その大会が成功するために「関わる」行為ですよ。