館長便り
其の八 礼に始まり、礼に終わるのかい?
武道の世界では、「礼に始まり、礼に終わる」という教えが定番になっています。極真館でも試合の始めと終わりの礼などは、特に厳しく指導しています。剣道などでも礼法はとてもしっかりと指導していますね。このことは、武道に限らず、野球やサッカーなど、あらゆるスポーツでも推奨されています。それぞれのやり方はありますが、「礼に始まり、礼に終わる」という教えはたいへんよいことだと思います。
でも、
礼に始まり、礼に終わるのかい?
と、あえて書いてみました。
ある学校でのできごとです。
大規模校で、部活動も活発で、特に大きな問題のある学校ではないのですが、そこに転勤していつも気になっていたことがありました。「あいさつをしない」のです。廊下ですれ違っても、こちらからしないとまずしないのですね。する生徒はするのですが、しない生徒はしらーっと通り過ぎます。そのくせ、職員室に入るときや、部活動の時だけは、大きな声で挨拶をするのですね。私はいつも変な違和感を感じていました。
ある日のことです。放課後、私はいつも体育館の中を通り過ぎて、となりの武道館に空手部の指導に行くのですが、体育館に入ったときに中で活動している部が一斉に練習をやめて、全員がこちらを向き、「先生、こんにちはー」「こんにちはー!」と大きな声で一斉に挨拶してきたのです。いつもの姿ではありましたが、日頃廊下などでろくに挨拶もできないくせに、このときばかりとやっている形だけの挨拶が気に入らなかったので、この日はついに、
「おまえら!普段ろくに挨拶もしないくせに、こんな時だけわざとらしい挨拶するな!」と一喝してしまいました。
体育館を凍りつかせてしまいましたね。いかんなあ。
でも、実際そうですよね。普段の生活でろくな挨拶もできないのに、部活動の時だけ、大声を張り上げて挨拶するのは変だと思うのです。普段から挨拶ができているなら気持ちのよい事なのですが。
また、「先生がしないから挨拶ができない」などと言う人もいます。これをやってしまうと挨拶をしないのは先生のせいになり、挨拶本来の姿ではなくなってしまいますよね。私は、挨拶は相手がしようがしまいが、「自分から」するものだと教えてきました。挨拶は、「すること」が大事なのですよね。ただ、お手本となるべき大人達が結構挨拶ができなくなってきました。これでは、なかなかよい挨拶ができるようにはなりませんよね。大人同士が自然と挨拶を交わす場面を見せていけば、子どもは自然と挨拶をするようになるものです。
ある学校で、生徒会に挨拶について投げかけたときがあります。なぜ挨拶が必要か、どのような挨拶がよいのかを考えさせたのですが、生徒たちは自分たちで考えた結果「相手より先に」というスローガンが生まれたのです。学校の雰囲気がとてもよくなりました。生徒もなかなかやりますね。
さて、「礼」についてですが、昔の中国、戦国の世に生まれた言葉(教え)だそうです。諸説ありますが、相手を思いやる心を「仁」といい、それを形に表したものを「礼」というそうです。
思いやりとは、相手のために自分の時間を割くことであるともいわれますが、礼という作法、行為はとても面倒なことです。しかし、この面倒な行為を相手のために時間を割いて行うことが「仁」なのです。
また、作法として頭を下げるという動作は、自分の急所を相手に無防備に晒すことであり、両手を前に出すことも、手には何も持っていない、ようするに相手に危害を加えない、「敵意がない」ことを表す行為なのです。したがって、「礼」は、戦国の世においては「自分は敵ではない」ことを相手に示し、「自分の身を守る」術だったのです。今では相手を尊敬するとか感謝するという意味が主なものとなっていると思いますが、どの理由にせよ正しく礼の作法を行うことは、互いに安全な信頼関係をつくることになるのです。これは、現代にも通じることかも知れません。正しく、心を込めた「礼」をすることは、試合や練習だけではなく、平素の振る舞いの中で実行してこそ、本当の「礼」の姿となるのではないでしょうか。ですから、「礼に始まり、礼に終わる」だけでいいのかい?となるのです。
「礼」には、始まりも終わりもないのです。「兵法は、平法なり」ということばがありますが、まさにその通りですよね。「礼」とは平常の行為でなければならないのです。まずは、朝の「おはようございます」からですね。
余計な話を1つ。
30年ほど昔、仙台のスポーツセンターで行われた東北大会のときのことです。今と違って、試合場は1つで、大勢の観客が取り囲む会場でした。テレビ中継もありました。
私が主審を務めた準決勝の試合後のできごとです。判定で負けた選手が、ふてくされた態度で礼をして、試合場を降りるなり、グローブを床にたたきつけたのです。それを見てしまった私は、試合場から飛び降りて選手をアリーナの端まで引きずっていき、「お前、今何やった!ここをどこだと思ってんだ!!」とピンマイクをつけたまま壁ドンして怒鳴ってしまいました。会場が一瞬にして凍り付き、その選手は顔面蒼白でしどろもどろで謝っていました。「しまった。またやってしまった。」と反省しました。選手にとっては、負けたときこそ、その態度が修行の表れなんですから。
こんな話もあります。
私が香取神道流を学びに、茨城のある道場に初めて行ったときのことです。すぐには道場に入れてもらえず、台所で「好きに稽古して待ってろ」と言われ、1時間半近く台所の板間で一人黙々と無外流の一本目の形をずっと続けていました。冷蔵庫やテーブルにぶつけないように刀を抜き続けました。「入っていいぞ」という言葉を頂き、道場に入ることができました。何人かのお弟子さん達がいて、稽古中だったのですね。私は、入口で正座をし、刀を右に置いて「よろしくお願いします」と礼をしてから道場に入りました。その時先生が、自分の弟子達に「今の礼の仕方を見たか、道場に入るときはこうするものだ。お前達も見習え。」ということを言ったのです。私にしては当たり前の作法なのですが、たいへん感心していただき、他のお弟子さん達と分け隔てなく、いろいろなご指導を頂くことができました。台所で一人黙々と稽古をしていたのもよかったのかも知れません。この道場の入り方は、下関で無外流の塩川先生にご指導いただいたものなのですが、礼の仕方1つでガラリと扱いが変わったお話です。
何にせよ、武道の世界に限らず「礼」は基本中の基本です。
「仁」を形にしたものが「礼」である。これには続きがあり、正しき「礼」から「信」が生まれるのです。