館長便り
其の六 支部長たる者は
私が極真空手(当時の極真会館)の福島県支部長になったのは、34歳(平成7年)の年の6月のことでした。
私は、高校時代、福島県南支部の郡山道場で指導員をしていましたが、高校卒業後盧山師範のもとで6年間内弟子として修行をした後、中学校の教員として就職し、福島県に戻りました。その後、もとの支部で師範代となり、地元石川町では分支部長として、空手を続けていました。
ところが、大山倍達総裁がご逝去され、極真空手は分裂を繰り返すようになりました。私は、盧山師範について行くだけなので、何の迷いもありませんでしたが、所属していた支部長が除名となったことから、私に支部長の役目が回ってきたのです。
6月のある日のことでした。仕事場に盧山師範から電話がかかってきました。「(当時の)館長から何か頼まれると思うが、絶対断るなよ。」でした。何のことかわかりませんでしたが、返事は「オス」しかありません。その後まもなく館長から電話がかかってきました。「支部長になってください。」ということでした。これも「オス」しかありませんよね。こんな大事なことを心の準備もないままに「オス」で済ませてしまうというとんでもない世界ですね。
さあ、どうしよう。
支部長というものは、全国組織の中で、福島県というエリアの統括を任されるわけで、会員の管理や審査、大会の開催をするなどの権限が与えられるのです。職業とすれば、支店長というような意味にもなるでしょうし、私は公務員でしたので、報酬はもらわないけれども組織のまとめ役として責任を果たすということはしなければならないのでした。今まで、師範代とか分支部長とか、気楽に(?)やってきた私が、『全体』ということを考え、責任を負う立場になったのです。福島県内はもちろん、全国の一支部としての立場も出てきます。ただ、趣味の延長で気の合う仲間を集めて御山の大将のような活動をする訳にはいかないのです。また、「総本部を助ける」という役目も重要です。当時の極真会館という組織があっての支部ですので、自分のわがままや怠慢で総本部の足を引っ張るわけにはいきません。組織全体が発展してこその支部ですので、支部は組織の脇役ではないのです。ですから私は総本部の事業には積極的に協力したものです。機関誌など会員数分購入し、会員に無料で配ったりもしました。ただしこれはもともと会費の中に含めたものなので、実際は無料ではなく、会費の中でちゃんと払っているわけです。これもちょっとした工夫ですね。支部によっては、ほしい奴だけ買えばいいなどといって数冊しか協力しない場合も多く見られました。その組織に機関誌があり、一般の書店にそれが売られていることのメリットを考えたら、どの支部も協力するべきなのではないでしょうか。だいたい2000部売れれば、出版社は機関誌を作ってくれます。各支部で協力すれば2000部なんてあっという間だと思うのですが。ちなみに当時の福島県支部では350部購入していました。これは、本部によい顔をしようとして行った訳ではありません。実はこれには意外な宣伝効果があるという見通しがあってのことでしたので、やがて会員数が500名を超える大きな力になりました。
「今年中に大会を開いてください」という指令がありました。6月に支部となったばかりなのに、年内に大会を開くなんて無理だと思いますよね。でもやるしかないのがこの世界です。いろいろ考えました。場所の確保、運営の準備などは、仕事柄慣れたものではあったので、「やれるだけやってみよう」ということにしました。そうすると不思議なもので、保護者やジムの仲間が後援会を結成してくれたり、広告を集めてくれたり、短期間でなんとか大会の準備をすることができました。大会は、12月の寒い日でした。盧山師範も来賓で来てくれました。埼玉の仲間も審判などで駆けつけてくれました。こうして第1回福島県大会が開催されました。型と組手併せて60名ほどの小さな大会でしたが、地域では大きな注目を集めた大会でした。型の試合などは、当時の極真空手では試合形式が確立しておらず、盧山師範がたった一人で審判を行い、入賞者をすべて一人で決めました。前代未聞ですが、その「見る目」には、唯々驚かされました。盧山師範には「福島は寒かったぞ。風邪引いたぞ。」としばらく会う度に言われましたが、それから27年間、福島県大会、南東北大会、東日本大会と発展した私達の大会すべてに盧山師範は来てくださっています。「あん時は寒かったな。」「あん時もらったリンゴはおいしかったな。」と今でもお覚えてくださっています。
極真会館から極真館に変わっても、支部長の役目は変わりません。
組織の看板を背負っている
まずはそれです。「看板に偽りなし」ということですね。
極真会館時代は、「型競技を作ってほしい。型を整理してほしい。」という指示を受けて、型競技委員会がつくられ、現在の型競技が実施されるようになりました。極真館になってからは、さらに武器術が加わり、空手本来の稽古方法に立ち返る内容に発展してきたのです。「競技空手」から「武道空手」に原点回帰したのですね。
となると、支部長たるものは、この組織の方針を己の支部に徹底することが責務とされるのです。私自身は、型も武器術も内弟子時代からの稽古の一環として行っているだけで、「そんなもの自分でやるもんだ」と思っていましたから競技化など考えもしませんでした。しかし、本部の意向ですので、支部としてもその方針に従い、いろいろと工夫して指導に取り入れたものでした。これについては、分支部長や黒帯の指導員達がよく理解し、協力してくれました。福島県は分支部が多く、広範囲に道場があるため、指導員を集めての練習会を年に何度も行い、指導内容の共有を行いました。それぞれの好き嫌いはあるのでしょうが、「看板に偽りなし」の指導を行っている道場ほど会員数を伸ばし、組手も型も結果を出すようになりましたので、黒帯同士の情報共有と「学び合い」が私の支部経営の柱となりました。御山の大将は要らないのです。常に足下と全体を見る目が、指導者には必要です。
「たいへんだ」「たいへんだ」「あれもこれもやってらんねえ」という人も多くいますが、結果として、「看板に偽りなし」という方針で支部経営をすることにより、徐々に会員が増加していきました。ニーズの多様化に対応しているということですね。
大会にも協力しなくてはいけない。合宿も参加しなくてはいけない。あれもこれも教えなくてはいけない。外部のクレームも対応しなくてはいけない。強い生徒も育てなくてはいけない。たくさんの生徒も集めなければならない・・・・「ああ大変だ。支部長なんてやってらんねえ。」
私も何度思ったことかわかりません。
でも、組織の中で、誰かが、盾となり、日傘となり、みんなの生きる場を作ってやるという役目を負わなければならないとしたら「それもありかな」と思ったものでした。教えるために自分自身がもっと稽古をしようとさらに頑張ったものでした。結果として、それらのことは自分自身のためになったのかも知れません。
思いやりとは、他人のために自分の時間を割くこと
と中学校の生徒に教えたことがあります。感謝をされるとか、何かをもらうとか、そんなことよりも誰かが喜んだり、励まされたりする場面をつくりあげるために自分の時間を惜しまず割いて関わっていく。その結果、達成感を味わい、喜ぶ人たちの姿を遠目に見ることが私は好きですね。
例えば、学校の文化祭で、閉会式で体育館の天井から吊したくす玉を実行委員長がひもを引いてうまく割れたとき、全校生が歓声をあげ、みんなキラキラとした笑顔、泣き顔をするときなんて、特に好きな場面でしたね。
ただのお遊びイベントではなく、「文化祭とは何か」、「学校とは何を学ぶべきところか」というこだわりがある活動をしたからこそ本物の感動が生まれるのです。まさに「学校という看板に偽りなし」ですね。
支部長には、誰もがなれるわけではありません。自分が望まなくても、誰かに押しつけられても何でもいいのです。
なった以上は「看板に偽りなし」です。
今、支部長として頑張っている人たちには、本当に頭が下がります。環境や条件もそれぞれに違い、なかなか会員が集まらなかったり、逆に多すぎて指導の手が回らなくなったり、苦労の連続だと思います。
私も、かつてはたった一人で体育館を開けて、たった一人で稽古をして、たった一人で鍵を閉めて帰ったことなど何度もありました。今思えば懐かしい思い出です。
支部長たる者は、東郷平八郎のマスト登りのごとくあれ。