館長便り

2022-07-22 13:16:00

其の三 川越道場のこと ~下駄箱の気持ち~

 image-21-07-22-09-58.jpeg  先日川越道場の玄関のつくりについて、昔の仲間に聞いたのですが、皆記憶が曖昧で、「下駄箱の位置はどうだっけ?」「松澤さん(当時の事務員さん)はどこに座ってたっけ?」などと、けっこういい加減なものでした。だいたいは思い出せたのですが、写真を撮っておけばよかったですね。

 私は、21歳の時から4年間、1980年代前半の頃でしょうか、埼玉県の川越道場の指導員をさせていただきました。今でいう本部直轄の分支部道場ですね。私が高校を卒業して盧山道場に入門し、2年目の末に西川口の地下本部道場が完成し、そこに「盧山泊」という内弟子寮ができたのでした。私もこれまで通いの内弟子でしたが、そこに住み込んでよい許可をいただき、寮生と共に生活をするようになった頃でした。そして、それまで川越道場を担当していた先輩が辞めることになったので、その後釜として私が指名されたのです。

 川越道場は、東武東上線川越駅の1つ手前の新河岸駅で降りて、徒歩5分もかからない、通りに面したとてもよい場所にありました。前任の先輩の指導がよかったのか、生徒も4~50人はいたと思います。私も何度か出稽古に行きましたが、ここはもともと盧山道場ではなく、極真会館を除名になった支部の道場の1つが傘下になったところなのでした。ですから、盧山師範の指導を歓迎する者ばかりではないという事情を持つ道場でしたから、なかなか難しい場所だったのです。前担当の先輩は、第1回の埼玉大会の優勝者でしたし、皆に一目置かれていた上に、指導も上手だったので、少年部のお母さん達にも人気がありました。また、一般部の連中にも実力で従わせることができる人でした。そこの道場は、もともとキックボクシングジムを併設しており、両方やっている者が多くいましたので、基本から丁寧に稽古をする指導には馴染みがありませんでした。実は私は、高校時代、盧山師範が福島に来る前にその支部の所沢道場で審査を受けたことがあり、そこで茶帯をもらっていたのです。それもあって、空手として認めてもらえず、なかなか黒帯になれなかったのかも知れませんね。今ではそれでよかったのですが。

 審査も空手の審査とは雰囲気が違いましたね。基本や型も多少はやりましたが、組手のコンビネーションやサンドバッグを叩かせるなど、キックボクシングの審査のような感じでした。あとは組手でしたが、顔面を狙って手を出してくるので、構えも攻め方もキックの試合のようでしたね。実は私はタックルが得意でしたので、この手の相手は、タックルでひっくり返して馬乗りになるパターンでした。この時も飛び込んでひっくり返し、馬乗りになって押さえつけました。お恥ずかしいですが、全然空手じゃないですよね。子どもの頃によく使ったケンカのテクニックが染みついて取れないのです。この時の審査の前に受けた審査は総本部で受けたのですが、その時もタックルでひっくり返し、馬乗りになって審判の黒帯に叱られました。大山倍達総裁の苦笑いを覚えています。

 昔の話はさておき、そんな道場に指導に行きましたので、「舐められてはいけない」「前の先輩に負けたくない」という変なプライドだけで道場に通いました。一応色帯だけれども前の道場では黒帯や茶帯だったという者もいましたので、二十歳を過ぎたばかりの若造の指導に従わない露骨な態度をする者もいました。「基本が大事」といって手直しをすると鼻で笑ったような生返事をする者もいました。

 実は私は、けっこう「短気」です。

 その瞬間にぶっ飛ばしていました。道場が凍り付くような場面でしたね。組手の場面では、態度の悪い者は徹底的にぶちのめしました。いつも、玄関の下駄箱まで追い詰めてトドメを刺し、頭から下駄箱にぶち込むということをよくやりました。見学者がいようと関係ありませんでした。今思えばひどい指導員でしたね。西川口の本部道場でもやったことがありますが、おそらく鏡で自分の顔を見たらとても恐ろしい顔をしていたかも知れません。

 案の定、生徒は激減しました。わずかな期間に1日の生徒数が10名を下回るようになってしまいました。事務の松澤さんにも小言を言われるようになりました。盧山師範からは、「今日の川越は何人だった。」と聞かれるようになりました。おそらく情報が入ったのでしょう。これではいけないと思いつつも、自分の稽古に心から従わない生徒たちに苛立ち、引っ込みがつかない状態に陥りました。西川口の指導ではそんなことはない(自分が思っているだけだったりして)ので、余計に悩みました。

 そんなある日のことでした。稽古が終わったときに、いつも指導を手伝ってくれた年配の黒帯の方が、「今日はウチで飲んでってよ」と誘ってくれたのです。この方のご自宅は酒屋さんでした。なぜか店にテーブルがあり、飲める場所があるのです。私はそこで遠慮なく一杯ごちそうになりました。その時、その方が最近の道場について語り始めたのです。「また小言かな?」と私は思いました。

 「あのね岡崎さん。川越のみんなは貴方がきてくれてとても喜んでいるんだよ。」

 「えっ、まさか、みんな嫌がっているんじゃないんですか?」

 「確かに貴方は怖い。いやな先生が来たと思った人もいたと思う。でも、あの厳しさはさすが盧山師範の弟子だと思う。」「そして、貴方のおかげで空手らしい空手が習えるようになったんだよ。」「柄の悪い先輩もいなくなったし。」「ただ、厳しいだけでは、貴方がもったいないよ。みんな近づけないよ。」「子どもたちなんていろいろ話を聞きたいんだと思うよ。」・・・・

 帰りの電車の中で、高校の頃、生意気で、柄の悪い大人が入ってくると絶対に許さなかった自分を思い出しました。その後、盧山師範にたたき直されたはずなのに。

「いかんなあ。また1からやり直しだなあ。」

 それから、稽古の厳しさは変わらないのですが、稽古の前後に意識的に話しかけるようにしました。仕事をしている人から見れば「なにをこの若造が。」と思われるかも知れないのですが、若造ならそれなりに教えてもらう気持ちで「なるほど」「そうすよね」と相手の話を聞くようにもしたのです。特に子どもたちには、好きなこと、学校のことなどちょっと聞くそぶりをしただけで群がってきました。前は稽古前に黙って砂袋を叩いていましたので、誰も話をしなかったのですね。稽古の前後には、送り迎えできた保護者や子どもに、玄関の下駄箱の前にしゃがんで「今日も頑張ろう」とか「今日は新しい型を覚えましたよ」などと話しかけるようにしたのです。そうすると、保護者からいろいろと玄関の下駄箱の前で話をしてくるようになり、「うちの子、先生の空手を楽しみにしてるよ」などと嬉しいことを言ってくれるようになったのです。お弁当の差し入れなんかも時々ありましたね。大人や学生達も稽古の後、残ってもうひと頑張り稽古する者が増えました。以前はさっさと帰っていましたが、「今日はこれを教えてやろう」「ミット付き合って欲しい」などと誘うと「俺も私も」と残る生徒が増えました。私も稽古相手が増えて、かえってよかったですね。顔面ありの組手も嫌がらずに残って付き合ってくれました。

 いつしか、稽古が終わってから、新河岸の駅前で飲み会などもやるようになりました。少年部、一般部それぞれに生徒も増えてきました。私は、帯ごとに役割を与え、後輩を教えさせるシステムを作りました。これが結構当たりで、面倒見のよい人間関係が道場の中に広がりました。少年部も同じです。「後輩の面倒を見ることができる人が本当に強い人だ」と教えるようになりました。ちょっと前の自分に言ってやりたいですね。やがて川越道場は140人もの大所帯になりました。

 あの恐怖の下駄箱が、今では友好の場所に変わったのです。道場に入ってくるときの顔、稽古が終わって帰るときの顔、そして私が最後に戸締まりするときにも、いつも何人かが一緒に付き合ってくれるほどになりました。

 川越道場は4年間指導に行きましたが、とても勉強になりました。その後の教員生活にも大いに役立つ経験をさせていただきました。この道場は数年前に取り壊されたそうです。現在はその近くで極真館埼玉西支部として活動しています。

 きっとあの下駄箱も、悲鳴と共にぶつかってくる大人より、笑顔の子どもたちの方がいいと思っていますよね。