館長便り
其の二 浦島太郎
私は、今年の3月末日をもって36年間勤めた中学校の教員生活を終了しました。いわゆる定年退職ですね。高校を卒業し、大学に行くんだか行かないんだかはっきりしないまま東京に出て、ふとしたことから、埼玉の盧山師範の内弟子となりました。そのまま6年の時が流れましたが、盧山師範の勧めで3年目からは大学にも通わせていただき(ほとんど週一しか行かないのに留年しなかったから不思議)、無事に卒業することができました。卒業後の進路は何も考えないままに大学4年の春を迎えたとき、盧山師範から、「空手では食っていけないからちゃんと就職しろよ」「お前は生徒教えるのが好きだから学校の先生が向いてるかもな」という簡単なやりとりで「教職」という道に進路が傾いたのでした。
私は、実は「図書館の職員」になりたかったのですが、とりあえず教員免許を取るために母校の中学校に教育実習に行きました。ところがそこがよくなかった。廊下で生意気な生徒を吹っ飛ばして校長室で怒られたり、先輩の先生に自宅まで呑みに押しかけてこられたり、毎日がハプニングの連続の実習でした。しかし、最終日にクラスの生徒たちに「絶対に先生になってね。」なんてキラキラした目でいわれたものだから、単純な私はその気になってしまったのです。
実習が終わってから採用試験まで約2ヶ月でしたので、徹底的に勉強しました。朝9時に大学の図書館に行き、夜9時の閉館まで粘りました。空手の方は、川越道場の指導は生活がかかっていたので継続し、本部道場の指導は代わっていただきました。毎朝開館と同時にたくさんの本を持ち込んで勉強をしている私を見て、図書館のオヤジが、「それだけ本を毎日持ち帰るのは大変だろう。どうせその席はあんた専用みたいなもんだから置いといていいよ。」と格別の配慮をしていただきました。盧山道場の寮(廬山泊)でも、事務室や応接室を借りて勉強させていただきました。夏の暑い時期には、奥の鍛錬室が涼しいので、ベンチプレスの台を机に勉強しました。今でもそのベンチ台は総本部に残っています。いったい何時間勉強したのだろうか。大学入試の時には、こんなにやらなかったなあ。
詰め込み受験ではありましたが、まずは東京都にA採用で合格することができました。もう一つ受けた福島県は難関だったのであきらめていましたが、合格採用の通知が来たときには飛び上がるほど嬉しかったです。ただしそれは、同時に盧山道場の内弟子生活も終わるということなのです。うれしさと寂しさが時間差でやってきました。
4月から、私は福島に帰り中学校の教員としての生活がスタートしました。当時は日本全国が「荒れた学校」の時代で、校内暴力なんてわざわざ言葉にしなくとも日常的なできごとの時代でした。私の赴任した学校は、田舎の割に生徒数900人を超える大規模な学校でしたが、これまた大変な学校でした。当時の文部省(現文部科学省)に全国の学校の中から生徒指導の研究指定校にされた学校でしたので、ようするに「日本で1番なんとかしなさい」という学校だったのです。4月1日の赴任の日に、職員室に行く廊下に何人もの戦艦大和のような頭をした卒業生達がブイブイ唸っていたのをよく覚えています。こいつらがその後どうなったかは守秘義務ですね。
そこから36年が経ちました。あっという間の夢のような世界でした。浦島太郎が亀を助けて竜宮城に行ったような気分でした。毎日タイやヒラメが舞い踊り、乙姫様のごちそうに舌鼓を打ちながら、時間の経つのを忘れてしまうような世界でしたね。私にとっては、学校という場所は、まさに浦島太郎の竜宮城だったのかも知れません。夢のような世界というよりは、本当に夢を見ていたのかも知れないですね。
私にとって学校という世界は、どの場面をとっても、「好きな」「楽しい」世界でした。生徒が暴れようが、保護者がクレームを言ってこようが、職員間でもめ事があろうが面白くてしょうがありませんでした。どんな人にも可能性があります。「どんな難問にも必ず答えがある」と下町ロケットの佃航平が言いましたが、本当にその言葉通りの世界でした。ただし、ちっぽけな感動ドラマではありません。「ブラック企業」と呼ばれるほどの多忙な世界でした。でもそれが楽しかった。最初の学校では、夜残っていると「ハイ出動」と指示が出ます。次の学校では、登校を渋る生徒を布団ごと丸めて部屋から引きずり出したり、これまた次の学校では、消火器を近くの病院からかっぱらってきて教室でぶちまけられたり、仕事をしない親に仕事を見つけてやったり…本が何冊か書けるほどのドラマがありました。でも、人は成長するのです。たった3年間ですが、いろいろな経験を通して変わるのです。そして、だれもが達成感と満足感を味わうときがくるのです。その瞬間のキラキラした一人一人の表情を見たとき、この仕事はやってよかったと心から思うのです。私たちも「忙しさ」が「楽しさ」へ、そして「やり甲斐」に変わり、「多忙感」を打ち消してくれるのです。
その輝く瞬間に関わることができる幸せとでもいいましょうか。最近は「学校の仕事は辛い」「精神的負担が大きすぎる」などと言われていますが、辛い人にとっては本当に辛いのでしょう。でも私は、やっぱり「こんなに楽しい仕事はないよ」といってやりたいですね。こんな私でも、最後の10年間は、現場で校長をやらせていただきました。生徒や保護者はもちろんですが、地域や行政の方々、そして何より一緒に働いてくれた職員一人一人に心から感謝しています。
最後の日、夜の12時に職務が終了します。別に退勤時間には帰ってもよいのですが、「退職する校長は、夜の12時に学校のすべての無事を確認し、玄関を施錠して校舎に一礼をしてその職を終了する。」という拘りの伝統があります。今時そんなことをする人はそういないのですが、私はその通り実行しました。付き合ってくれた教頭には感謝しています。
最後に玄関の鍵を閉めた瞬間、あの戦艦大和のような頭の生徒から始まった36年間の思い出が走馬燈のように浮かび上がりました。長い長い夢の世界でした。校舎に一礼をして頭を上げた瞬間に夢から覚めた気がしました。すがすがしい夜空が広がり、そこにはタイやヒラメはもういませんでした。
先日、極真館の館長として新たなスタートを切りました。しかしそれは第二の人生ではなく、夢から覚めてもとの世界に戻っただけなのでしょう。36年という長い間、竜宮城にいた浦島太郎のようなものですね。
浦島太郎と違うところは「玉手箱」は持ちかえらなかったところでしょうか。まだまだ歳を取るわけにはいきませんから。